邪馬台国はどこか 邪馬台国ご合った時代畿内既栄えていた考

邪馬台国はどこか 邪馬台国ご合った時代畿内既栄えていた考。逆に、どう理解したら「邪馬台国」が九州にあるとなるかわからない笑倭人伝には卑弥呼の墓は径百余歩つまり後円部にあたる円丘の径約150mであると書いているが、そのような大規模な「冢」は、いまのところ吉野ケ里遺跡はもとより北部九州では見つかっていない。どう理解たら【ぎわじんでん】の邪馬台国畿内なるのか不思議(笑)
邪馬台国ご合った時代畿内既栄えていた考えるの普通であり、邪馬台国魏交易ていただけで、畿内 他の国交易ていただけ考える方当たり前なのなぜ畿内こだわるのかわない
東西南北分かる船乗り、畿内行くなら、そりゃ、中国地方目掛けて行くの当たり前 争いの絶えない九州の地方豪族の話畿内説するの無理あるのわないのかな 展望。そのころも邪馬台国論争がありましたが。七田さんが「邪馬台国を考える上で。
この地域は学術的に重要な地位を与えだから。吉野ヶ里が佐賀平野の弥生時代
の拠点であることは。今回の調査以前に位置づけられていたのです。吉野ヶ里
と魏志倭人伝の邪馬台国時代より。~年後に古代国家が成立するのです。
吉野ヶ里遺跡の今回の発見の意義をひとことで言えば。日本の歴史の中で最大の
謎とされている邪馬台国の謎を解くカギをこの遺跡が提供している点だと思い
ます。

邪馬台国はどこか。ここでは畿内。九州を中心に”邪馬台国のイマ”をみつめていきたいと思う。
距離や方角の情報だけで考えると。近畿説では,里よりも長くなり。九州説を
とると投馬国や邪馬台国へ至るための「熊本=狗奴国説はかなり有力ではある
が。先入観を取り払えば。邪馬台国があっても不思議はない。邪馬台国の時代
の東アジアは混乱期にあり。中国と周辺民族との関係が大きく変化した時代で
あった。③ 鉄器は近畿の日本海側から普通に入っていたので充分九州に対抗
できる。BS。おすすめ番組や番組表など。-の様々な情報をご覧いただけます。いつでも
諸説あり!邪馬台国スペシャル ?古代ミステリー 幻の国は“ここにあった!”?
土よる~ 森羅万象にその所在地に関しては謎が多く。「
九州説」と「畿内説」の2つが有力とされ年に渡る論争が続いている。
ここで出土した卑弥呼の時代の石器が。“すずり”だと判明したのだ。水銀は
中国との交易に重要なもので。豊富に採れる場所に国の中心があったはずだ
という。

考古学から見た邪馬台国大和説。果たして。邪馬台国は「大和」にあったのか!? 古代史の中でも。特に謎が多い「
邪馬台国」。 邪馬台国については。江戸時代以降主な候補地として「九州説」。
「大和?畿内説」があげられる。昨今では。「大和?畿内説」が有利とみられて邪馬台国の謎に迫る。邪馬台国については日本史における最大の謎でもあるのですが。大きく分けると
「畿内説」と「九州説」にその女王卑弥呼が亡くなった頃に作られた巨大な
前方後円墳。「箸墓はしはか古墳」があり。その被葬者九州説では。魏志
倭人伝に書かれている朝鮮半島から邪馬台国までの行程を辿ると九州のどこかに
あったと考える方が説得力があます。また。佐賀県に位置する巨大な弥生時代の
集落跡「吉野ケ里遺跡」こそが邪馬台国ではないかといわれています

逆に、どう理解したら「邪馬台国」が九州にあるとなるかわからない笑倭人伝には卑弥呼の墓は径百余歩つまり後円部にあたる円丘の径約150mであると書いているが、そのような大規模な「冢」は、いまのところ吉野ケ里遺跡はもとより北部九州では見つかっていない。いい換えれば、邪馬台国が北部九州に存在したという物証は見当たらない。一方で、奈良県桜井市の「纏向遺跡」にある「箸墓」の後円部にあたる円丘の径約150mであって、周辺から出土した土器などから3世紀中ごろに築造された古墳で卑弥呼が亡くなった時期と合致する。さらに、纏向遺跡は3世紀最大の都市遺跡で東は関東、西は九州にいたる広範囲の土器が出土して物流の中心地であったことが判明しており倭国の都にふさわしい。文献的にみても中国の正史である「北史」「隋書」には「倭国は??ヤマトを都においている。すなわち、魏志に書かれている邪馬台のことである」と明確に畿内に邪馬台国があると書かれている。問題は倭人伝では、邪馬台国の場所がわからない点であるが、よく読めば魏から使者は伊都国までしか行っておらず邪馬台国までいっていないことが書かれている。そして、邪馬台国は南方のかなり遠方であることが書かれていてベトナム北方沖にある海南島に近く、福建省福州市の東、台湾の北あたりに邪馬台国があるのではないかと推測している。いいかえれば、当時の中国人は日本が朝鮮半島から南方にあり台湾付近までの空間の存在していたと想像していて、その地理認識で邪馬台国の場所を書いているために倭人伝の記述をそのまま信じると迷走するのである。人類が正確な地図を描けるようになったのは18世紀からであることを考えると、当たり前であるが、現在の感覚で倭人伝に書かれている邪馬台国までの行路を考えるから間違えるのである。そうは言っても、九州には邪馬台国に比定されるような同時代の遺跡は出てきてないわけで???そもそも『魏志倭人伝』の、記述が全て正しいと考え、その内容の中からだけ結論を得ようとしていることが誤りなのですなので、距離「放射説」というこじつけや、はてには邪馬台国はジャワやら、スマトラにあったという陳説まででてくるのです史料というのは、ときに批判的に検証を加えながら読むべきものと思いますそもそも邪馬台国時代に畿内が栄えていたということ自体がおかしいですね。纏向遺跡の古墳などを従来の通説から100年近く遡らせて無理矢理邪馬台国時代に持って行こうとしていますが、その年代測定法自体が科学的に欺瞞に満ちています。実際に、法隆寺の心柱を再建年代より100年程前に判定していますし古代の年代に関しての近年の改定は全て無視すべきです。『魏志倭人伝』には、「倭地」とは「周旋5千里=九州島」であるとハッキリ書かれていますので、九州説以外は顧みる必要はないでしょう。邪馬台国時代に栄えていた畿内の銅鐸文明は4世紀初頭に突如として消滅しており、『記紀』通り、九州の神武勢力に制圧されたことは明白です。まったくその通りです。倭人伝を素直に読めば良いのです。 また、記紀では、どうか?卑弥呼は記紀では台与と共にアマテラスオオミカミ天照大御神とされています。ただし、伊勢神宮ではこの二人を分けて、天照大御神とそれを受け継いだトヨウケオオカミ豊受大神=台与が受け継いだとして区別して祭っています。この祭神のあり方が台与の前代が卑弥呼すなわちアマテラスである事を如実に示しています。では、邪馬台国は何処か?邪馬台国は福岡県の奴国から南行した旧山門郡=現在のミヤマ市周辺、それに八女市、久留米市あたりが中心で、その領域としては筑紫平野佐賀平野全域と思われます。それは、福岡市周辺の福岡平野の奴国が戸数2万戸とあるのに、邪馬台国はその3倍以上の7万戸とあるからです。この戸数の数値自体は誇張だと思われますが、その比較値はほぼ正しいと思われます。すると、福岡平野にあったことが明らかな奴国に対してその福岡平野の南で3倍以上となると筑紫平野と佐賀平野全域だと考えられます。平野の大きさからするとおおむねそのくらいになります。これは戸数の比較ですが 方角から考えて、邪馬台国は奴国の南ですし、その上、伊都国は邪馬台国の北にある、と明記されています。また、距離で見ても、伊都国から壱岐国まで末盧国経由で千五百里、伊都国から奴国経由で邪馬台国の女王の都するところまでが同じく千五百里です。伊都国から壱岐国まで、せいぜい6、70kmですから、内陸をくねくね行く6、70kmなら直線で4、50kmで良いでしょう。すると、奴国から直線で40km前後南に行けば、久留米から八女市ミヤマ市旧山門郡あたりに行きます。そのあたりが卑弥呼の都する所なのです。そして卑弥呼の墓は久留米市の祇園山古墳でしょう。この古墳は筑紫平野佐賀平野全体を一望に見渡せる所です。古墳自体は一辺が23m程度の方墳ですが、その周囲は自然の丘陵を削って楕円の基盤を作っています。また、この古墳は実は九州自動車道によって一部削り取られており、その断面はグーグルマップで見る事ができます。 その断面を見るとその大きさがかなりのものである事がよくわかります。 魏使の目から見たら、もちろん、基盤も含めて径百余歩145mの円墳に見えたとしてもおかしくないでしょう。また、この基盤部には68体もの埋葬者があり、中には同じ甕棺に殉死葬である互い違い葬で埋葬された人物も確認されています。この68体全てが築造時のものではないかもしれませんが少なくとも20数体くらいは築造時のものと見られます。これらは殉死葬が見られるように殉死者だと思われます。古墳の主埋葬者は女性と見られる事、箱式石棺で郭が無い事も倭人伝の記述にある、棺あって郭無し、に一致します。まぁ、多数の殉死者が確認できる古墳は全国でここだけでしょう。では、畿内説はどうか?現在は考古学会では畿内説が大勢ですが、その根拠は実は歴博の土器付着スス焦げ炭素年代の一本槍でしかない。それも国際標準年輪年代に基づくのではなく、光谷拓実氏のみ近頃その弟子の一人もが開発したと言う日本産樹木の年輪年代に依拠したものです。つまり、畿内説の炭素年代=光谷氏の年輪年代≠国際標準年輪年代です。結局、畿内説の根拠はただ一つ、歴博の土器付着スス焦げ炭素年代=光谷氏の年輪年代法一本槍です。それによれば箸墓古墳の周濠から出土した布留0、1式土器に付着していたスス焦げの炭素年代が240?60年代を示した、と言う事ですが、それだけで他の根拠らしき物も結局は、歴博の炭素年代=光谷氏の年輪年代法の繰り返しに過ぎません。つまり、他の様々な炭素年代以外の独立した指標がないのです。それどころか、他の独立した指標は箸墓古墳の築造年代をおおむね、4世紀前半を指し示しています。 では、その炭素年代=光谷年輪年代と他の指標とどちらが正しいのか?ですが、光谷氏の年輪年代=炭素年代は640年以前についてはほぼ百年古く狂っているのです。例えば、その年輪年代法によれば、670年に全焼し、701年から710年頃に再建された法隆寺の五重塔の芯柱は594年伐採となる。他にも記録より百年以上古くなる事例が多数出てきます。以下、その鷲崎氏の論文。1、法隆寺は 607 年に聖徳太子により創建されたが、五重塔心柱樹皮型、年輪 354 層、直径 82 cm。1941~1952 年の解体修理に際し厚さ 10cm の円盤標本が切取られ京都大学に保管されていたは 594 年伐採と測定された 2001 年。しかし、法隆寺は 670 年に全焼『日本書紀』天智九年、7 世紀末~8 世紀初の再建とされる。100 年の誤差が生じ現在も理由不明のままで、光谷拓実も「多くの新説を期待するのみ」とする『日本の美術』421 号 2001 年。法起寺三重塔心柱心材型、直径 70cm。測定年代 572+αに対し 706 年建立:『聖徳太子伝私記』 も建立記録と 134 年違う。法隆寺五重塔心柱は最外周の樹皮が残っており、加工時にほとんど削られていない。 これを踏まえ、光谷拓実=年輪年代法考案者も心材だからといって目を背けずに考察しているも法起寺三重塔心柱が 100 層以上削られたのは疑問とする。現状は 光谷氏は100 年前の古材利用 と説明しているが、年輪年代を 100 年修正して共に新材のヒノキとするのが正しい。五重塔や三重塔の心柱は建 築構造上もっとも重要で、建築学からは 100 年前の古材を転用するなど考えられない鈴木嘉吉。ちなみに、薬師寺五重塔の修理の芯柱の写真を示しておきます。 やはり、表層は殆ど削られていません。他にも、記録よりも百年以上伐採年が古くなってしまうケースが数多く存在する。以下その論文。2、奈良市元興寺禅室僧房の一部を鎌倉時代の 1244 年に改築の巻斗建物の横材を支える部材。樹皮型お よび頭貫屋根裏の横柱。樹皮型に近い辺材型も、伐採年代 582 年、586 年頃に対し建立は 710~718 年:『続 日本紀』『元興寺縁起』で、同様に 100 年ズレている。596 年建立の飛鳥寺当初は法興寺または元興寺で、後 に飛鳥寺と名称変更は、平城京遷都に伴い飛鳥から平城京へ移転した『続日本紀』718 年。しかし、平城京 の元興寺は移築ではなく新築で、飛鳥の元興寺は「本元興寺」としてそのまま残り、併存していたとするのが通 説である。滋賀県紫香楽宮跡から出土した9本のヒノキ柱根は、No.1~4が樹皮型、No.5は辺材型で、『続日本紀』の 記録紫香楽宮は 742 年に建設を開始し 745 年に短期間都としたと一致する表 1。ところが、No.6~9は 心材型で最外年輪は 530~562 年の形成と判定された1985 年測定。そうすると、『続日本紀』とは 200 年の 違いがある。ヒノキでは年輪 1 層1 年は平均 1mm で、200 年では半径ベースで 20cm 直径ベースでは 40cm にもなる。No.6~9は直径 40~50cm の掘立て柱で、直径 80~90cm の原木を外から 40cm も削り仕上げた柱とは考えられない。、、、また、4東大寺正倉院の事例でも、AD640 年以前の測定値を示す No.1~3、No.8~11 も全く同様である表 1。2002 年および 2005 年測定。このように、記録と照合可能な 15 事例法隆寺五重塔心柱、法起寺三重塔心柱、元興 寺禅室巻斗および頭貫、紫香楽宮跡 No.6~9柱、東大寺正倉院 No.1~3板?No.8~11 板では、AD640 年 以前の測定値が全て 100 年ズレている。これら以外に記録と検証可能な事例は存在しない。仮に測定値が正しけ れば、15 事例表 1 で「×」表示は全て 100 年前の古材利用?風倒木利用となるが、それは有り得ない。例えば、古材、新材の可能性を全事例で五分五分としたとしても、畿内説が成り立つにはその全てで百年以上古い古材でなければならず、その確率は2の15乗分の1となる。つまり、640年以前では年輪年代法が正しい確率はほぼ0%なのです。つまりほぼ100%百年古く狂っている!では、どうやって実年代を図るか?例えば、1ホケノ山古墳の画文帯同向式神獣鏡があります。 この銅鏡と同じ様式の鏡は楽浪郡の跡地で楽浪最終期土器と共に出土しています。最終期と言うのは楽浪郡の滅亡が313年なので、その直前期となり、290年代~313年代頃と考えられます。さらに、楽浪郡最終期の土器と共伴出土の銅鏡には、徳島県の萩原2号墳丘墓から出土した画文帯同向式神獣鏡と傷口まで一致する兄弟鏡があります。これら楽浪郡の被葬者の埋葬時期はいずれも楽浪郡の滅亡直前期楽浪最終期土器時代と考えられます。つまり、290年代から313年の間です。そうすると、萩原墳丘墓やホケノ山古墳の埋葬時期もそこから遠くないやや遅れた時代と考えられます。萩原墳丘墓が31、20年代前後、ホケノ山古墳が32、30年代前後、その後に箸墓古墳が築造されたのです。 33、40年代頃つまり、4世紀前半です。 2これは、記紀の記述の4世紀前半の人物とされる崇神天皇が箸墓古墳を築造した、と言う記事モモソ姫を大市の地に埋葬したとも一致します。3また、記紀によれば、崇神の死亡年は318年とされています。4また、さらに他の崇神天皇の活動時期を考える指標として埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣があります。その銘文にはヲワケの臣が471年に作らせた、とあり、そこから7世代前の上祖オホヒコは、崇神の伯父のオホヒコノミコトと考えられます。つまり、崇神は6世代前です。中世ながら関東に定着した土豪の6世代差を調べると、約150?160年程です。つまり471年の約15?60年程前の31?20年代=4世紀前半が崇神の時代となり、やはり一致します。 5箸墓古墳の周濠の底の土層中から出土した木製輪鐙は4世紀中頃?後半以降の物です。 つまり、箸墓古墳はそれ以前の4世紀前半となります。この様に炭素年代以外のほぼ全ての指標が箸墓古墳の築造年代として4世紀前半を示しているのが実態です。私は?魏志倭人伝は伊都国を中心とする北部九州を描いたもの、卑弥呼は伊都国の女王?邪馬台国の記述は誤解によって挿入されたもので、魏志倭人伝の世界とは関係がなく、おそらくヤマトと読んで今の奈良県にあったと考えています。その点においては、畿内説支持ではあります。大陸を出てから伊都国までと、奴国から邪馬台国までは文章の書き方が違います。これは引用した資料が違うからで、伊都国を訪問した文章に邪馬台国の情報を繋いだために訳が分からないことになっているのです。長年の議論からどうしても邪馬台国をどこかに比定しようとしてしまいますが、その邪馬台国の情報だけが編集ミスで、あとはほぼ正確に書かれてあることが、この論争が止まない理由です。奴国から邪馬台国までのくだりを省いて読めば、元々伊都国のことを書いた文章だということが分かると思います。九州北部がすでに邪馬台国だからだが、女王国が畿内にあるだけで。かといって九州説が確定するわけでもないでしょ。魏の使者が九州をうろついてたのは確かに読み取れる。でもそこから「水行20日、水行10日、陸行1月」でしょ。どう考えたら九州内におさまるわけ?その記載以前は方角と里数が比較的しっかり載ってる。でもそこからは大雑把な方角と目安にもならない日数だけ。魏志から読み取れるのは「九州から先は教えたくない」だよ。邪馬台国は江戸期末の国学の考えを現在も引き継ぐ思想学だからです。考古学、歴史学でなく文学だからです。①近畿説に不可欠絶対の九州近畿の往来が無視される。②魏志倭人伝には邪馬壹国としか載らない。③奈良地方がヤマトと確認できるのは記紀以降。④唯一日本の資料にある、日本書紀神宮皇后39年紀を無視するか、卑弥呼=神宮皇后に比定せざるおえない。現在、埋蔵物で確認できるず、確認できる唯一の資料?日本書紀が無視されます。結果、近畿説主張できる根拠はありません。否定できる根拠は腐るほど有ります。個人的想像では、これだけ集中してマキムク周辺掘り起こして、魏志倭人伝に関連する物が環壕しか出てこないですが、当時は一般的だった可能性が非常に高いです。マキムク広く周辺での掘削工事は最低でも立ち会い?試掘させられます。土器破片1かけらでも出れば、工事中断です。それでも確定的遺物出て来ません。宇宙からの地下観察技術が、民生用に活用される時代になれば、卑弥呼?イヨの墓既に破壊されてると思いますが捜せる筈です。国民の70%は邪馬台国畿内説ですが畿内は確実に否定できます。邪馬台国は畿内以外ならどこでも構いませんよ。周知のとおり邪馬台国論争は決着していませんよね。魏志倭人伝は3世紀に中国人が日本に来て見聞した報告書に基づいて記した文献です。魏志倭人伝を素直に読めば、邪馬台国畿内説は有り得ません。魏志倭人伝があるから邪馬台国論争があるのです。纏向が初期大和王権の本拠地であることは動かない。箸墓が大和王権成立期の始祖王の墓であることは動かない。しかし、大和王権と魏志倭人伝は無関係です。邪馬台国畿内説の主な根拠は次の通りです。1 纏向は初期大和王権の本拠地だから纏向が邪馬台国に違いない2 歴博発表の炭素14年代測定結果箸墓築造年代3 三角縁神獣鏡や土器の分布状況4 纏向で見つけた建物跡柱穴5 混一疆理歴代国都之図に日本列島が南北に長く描かれている1はAが正しければBも正しいとする妄想的推論です。1の裏づけとされる2~5は全て否定できます。魏志倭人伝「自女王国以北 其戸数道里可得略載 其余旁国遠絶不可得詳」「自女王国以北 特置一大率 検察諸国 ??? 常治伊都国」邪馬台国畿内説では、この『自女王国以北 ~~~』を説明できない。女王国が大和にあれば以北に在る伊都国などは山城?近江?若狭あたりになければならない。以北を「以西」にすると遠方の対馬?壱岐?末蘆?伊都などの戸数?道里が略載できて、その手前の吉備?播磨?河内などの詳細が得られないのは理解に苦しむ。手前の国々を通過することは必須です。吉備を出雲にかえても同じことです。女王国が大和にあれば吉備や出雲は重要です。また、以北を「以西」にすると一大率の検察範囲が山陰?山陽?四国?九州地方にまで及んで伊都国に居る一人の大率には広すぎる。当時は乗馬の習慣は無い。移動手段の整った現代でさえ検察?警察は都道府県に設置されている。大和の「以南」は紀伊半島になる。「以東」は東海?関東になる。つまり女王国が大和にあれば東西南北すべてが説明できない。これが邪馬台国畿内説の克服すべき難点です。魏志倭人伝「女王国東渡海千余里 復有国 皆倭種」女王国が大和にあれば東の国々は全て陸続きですから渡海の必要はありません。畿内説では説明できません。単純な話です。「水行」だったら許してやるけどね邪馬台国と大和朝廷は別物ですから、邪馬台国畿内説は有り得ません。「邪馬台国が大和朝廷になった」との仮説がありますが、それなら大和朝廷に邪馬台国の伝承が伝わっているはずですがそうではありません。魏志倭人伝には、卑弥呼の死後男王を立てたが国中は服せず次に13歳の少女壱与を立てて国中が定まったと記されています。卑弥呼や壱与の名はモモソ姫でもヤマト姫でも構いません。倭国乱?卑弥呼共立?卑弥呼の死?男王?国中不服?13歳の壱与と大きなイベントが連続しているのですが、記紀には何も記されていません。日本書紀の神功紀39年?40年?43年の条の割注に魏志を引用して神功皇后を卑弥呼に擬していますが、魏志を引用するしかない事が大和朝廷に邪馬台国の伝承が伝わっていない証拠です。邪馬台国の伝承が伝わっていれば割注ではなく本文に、その伝承をそのまま記せばよいのですから。神功皇后が実在の人物なら卑弥呼の年代と100年ものズレがありますので、同一人物ではありません。畿内説の根拠の1つに、倭人伝の「銅鏡百枚」を三角縁神獣鏡とする説がありますが確定ではありません。三角縁神獣鏡は日本で約560面が出土していますが、中国での出土はありません。約560面が出土していることから地中に埋まったままの出土していないものを含めると1000面を超えると思われます。中国での出土がないため三角縁神獣鏡は全て日本製とするべきですが、畿内説論者は三角縁神獣鏡は特鋳で日本製と中国製が混在していると主張しています。三角縁神獣鏡が特鋳なら銘文に「倭国」「倭王」などがあってもよいのではありませんか。三角縁神獣鏡の銘文にあるのは中国の年号?地名、鋳造の工房?工匠、吉祥句?誤字?脱字?文意の通らぬものなどです。近年、三角縁神獣鏡の三次元計測データからコンピュータ上で3Dモデルを生成して移動?回転?拡大?縮小等の表示が可能になりました。畿内説論者は3Dモデルを利用して鏡の微細な傷や割れなどから中国製と日本製の決定的な違いを見出そうとしていますが、見出せていません。見出せなければ、全て中国製か全て日本製にするしかありません。倭人伝の「銅鏡百枚」を画文帯神獣鏡とする説もあります。「大作冢 径百余歩」箸墓古墳を卑弥呼の墓とする根拠は、魏志倭人伝に記されている7文字があるからです。前方後円墳は倭国が強大な国であることを誇示する為のものですから、倭人達は郡使を箸墓に案内しなければ意味がありません。卑弥呼の時代に箸墓が存在していたら、祭祀が執り行なわれていた前方部にも案内したでしょう。当時の箸墓は葺石で覆われて輝いていたことでしょう。案内された郡使は驚きをもって箸墓を入念に視たはずです。中国には無い、巨大で美しいデザインの前方後円墳を視たのなら詳細に記述するはずです。僅か7文字はあり得ません。箸墓古墳と卑弥呼の墓は無関係です。「径」は冢の径ですから「円形の塚」のイメージです。「百」は実数ではなく「多い大きい」の意味です。箸墓古墳を卑弥呼の墓とするのは無理です。箸墓古墳の築造年代を西暦240~260年ごろとする国立歴史民俗博物館の一方的な発表は学会で承認されている訳ではありません。毎日新聞 「箸墓は卑弥呼の墓」暦博年代測定 信憑性疑問も発表後、司会者の同協会理事が「発表内容が協会の共通認識になっているわけではありません」と、報道機関に冷静な対応を求める異例の要請を行った。新聞記事は東京都立中央図書館などの新聞縮刷版で確認できます従来、箸墓の築造は4世紀とされていた。箸墓の周濠から4世紀の木製の鐙あぶみが出土している。鐙が周濠内に投棄された遺物なら箸墓は4世紀の築造とするべきです。大王墓の完成後は周濠には入れない。神聖な周濠にゴミを捨てることは許されない。周濠に木製品が浮いていたら墓守はかもりが拾うでしょう。つまり周濠の底に埋まっていたのなら築造中しか考えられない。桜井市纒向学研究センターでは「古墳が築造されて暫く後に周濠に投げ込まれたものと考えられます」としているが、築造されて「暫く後に周濠に投げ込まれた」のなら墓守が拾うでしょう。「暫く後」とは10年後か20年後か多く見積もっても30年後でしょう。まさか50年後ではありませんよね。「暫く」は短い時間のこと大塚初重『邪馬台国をとらえなおす』223ページに『桜井市教育委員会は、「周壕内から出土した鐙は箸墓築造後30年ほどの堅く積もった堆積土の中から~」と発表している。』と書いてある。仮に箸墓の築造を西暦240~260年とすると、30年後も40年後も3世紀で、4世紀の鐙の出土は無理です。鐙の問題もまた邪馬台国畿内説の克服すべき難点です。畿内説の考古学者は魏志倭人伝を無視しているが、考古学からも畿内説を否定できます。wikipediaに纒向遺跡の「搬入土器の出身地割合」が示されていて割合の合計は100%になるが出身地に九州は含まれていない。もしかして九州の土器が1個や2個だから割合%に含まないのかな。纏向遺跡で各地関東~西部瀬戸内海の土器が出土していて、その地域を支配しているのなら、九州は支配されていなかったと考えられる。九州の土器が1個や2個出土しても支配したとは言えないでしょう。支配していない伊都国への一大率の設置はできないでしょう。畿内説の考古学者は纏向で見つけた建物跡柱穴を卑弥呼の宮殿と結びつける。そしてマスコミは「纏向=邪馬台国」を是認するような「卑弥呼の館か」などと報道する。そして多くの人々は「纏向=邪馬台国」を是認するのです。纏向周辺には古代の天皇の宮が在ったのだから、いきなり卑弥呼の宮殿ではなく先ずは天皇の宮を考えるべきです。考古学者の森浩一1928-2013先生は、「纏向遺跡の建物が出たとき、崇神の宮ではないか、垂仁の宮ではないか、景行の宮ではないかということは、どうして出てこなくて、いきなり卑弥呼がくるのですか。」と苦言を呈していた。魏志倭人伝邪馬台国もしくは邪馬壱国は「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬壹国 女王之所都 水行十日陸行一月」と記されています。そのため女王国は「当在会稽東治之東」と記されているのです。現代の地図を見て魏志倭人伝はデタラメだと言うのは簡単ですが、当時の中国に現代と同様の地図などありません。当時の中国人の地理認識なら中国で作られた、12世紀頃の『古今華夷区域総要図』13世紀頃の『宋拓輿地図』14世紀頃の『東南海夷図』などの古地図を参照するべきです。12世紀~14世紀の中国人の地理認識の変化が分かります。ネット検索で確認できますこれらの古地図を見れば魏志倭人伝の「当在会稽東治之東」も理解できます。つまり「当在会稽東治之東」は当時の中国人の地理認識を拠り所にしていることが分かります。

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